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2012年5月4日(金)日本経済新聞「経済教室」(坂田一郎教授)

  



「埋没知を有効活用したイノベーションにより未来を拓く」

21世紀に入り、電子化された情報が爆発的な増加をみせている。ウェブサイトの数は、1億件を超えていると言われる。学術研究から生まれる知についても、同様な傾向がみられる。例えば、DNA(デオキシリボ核酸)に関する主要な研究論文は、分子生物学の祖、J.ワトソンとF.クリックが二重らせん構造を発見した1953年当時は年間、100本程度、出版されるにすぎなかったが、現在では、10万本を超えており、かつ、それらの大半は電子的な形で公開されている。今日、人類は、地球環境の持続可能性の低下、社会の高齢化、予期しがたい災害の頻発による不安の高まりなど、多くの深刻な解決すべき課題に直面している。一方で、我々は、そうした課題解決の武器となる知を、歴史上、かつてなかったほど大量に手にしている。こうしたことから、最新の知識と課題とを結び付け知のフロンティアを開拓することで、課題を解決するイノベーションを多数実現し、より豊か、幸福で、安心な社会を構築することが期待されている。また、同時に、課題解決を梃子として大量の知を動員し、社会的なニーズに即した革新的な製品・サービスを生み出すことにより、経済の成長力を高めることも可能と考えられる。しかし現実には、既に多く指摘されているように、我が国では、政府・企業の研究開発投資の効率が悪く、研究開発投資の結果生み出された知識を市場へと結び付けることが出来ていない、もしくは社会や市場との接点に乏しい知識が生み出されている。投資から活用まで時差が存在するため効率を測ることは容易ではないが、今日、世界市場で我が国発の革新的製品・サービスが目立たなくなっていることは事実であろう。要するに、我が国では、利用可能な大量の知と社会課題や市場とが効果的に結びつけられていない。そこで以下では、文書化され、利用可能な状態にあるが、実際には利用されずに眠っている知識を「埋没知」と呼び、高齢化を例に、如何にしてそれを有効活用するかということを考えたい。

社会の超高齢化は、我が国が世界に先駆けて直面している課題の代表である。未だ超高齢化社会のモデルを作り上げたといえる国・地域は存在せず、その提案と実証が待たれている状況にある。一方で、高齢化社会を乗り切る知恵は、既に大量に蓄積されている。東京大学のイッティバヌワット・Vと梶川裕矢らの研究によれば、アクティブ・エイジングの条件を網羅した世界保健機構(WHO)のガイドを参考に検索をすると、高齢化に関する世界の主要な学術論文は八万三千本も存在することがわかる。それを時系列に分解すると、近年、劇的に増加していることもわかる。しかし、これらの知識は十分に活用されているのであろうか。社会保障制度の持続可能性への不安の高まり、高齢者の引きこもりや孤独死、認知症の高齢者の増加と成年後見人の不足、長期の介護による家族の疲弊、高齢化率が高まり共同生活の維持が難しくなる限界団地の増加、先端的な医療機器の輸入超過といった様々な課題が存在し、それらの解決に目途が立たない状況であることを踏まえると、知識の多くが埋没し、有効活用しきれていない状態にあるといえよう。原因として様々なことが考えられるが、知識の性格に起因するものとして三点挙げておきたい。一つは、高齢社会に必要な知は極めて分野横断的だということである。それは医学、工学、社会学、法学、経済学等、多様な分野の集合によって成り立っている。最近、取組が強化されているとはいえ、我が国の産学は、分野を横断して知を開拓したり、活用したりすることを苦手としている。二つ目は、知識全体について定義が十分に定まっておらず、また、成熟した分野と違ってその構造も明らかでないため、知識の全体像が捉えにくいということである。全体像が見渡せないと、有用な知識の在りかを見つけることは難しい。三点目は、治金工学と造船、薬学と創薬との関係等とは異なって、知識とその応用先との関係が単線的ではなく、特定しにくいということである。これら相互に関連する三点は、知識が埋没しやすい条件であるともいえる。

埋没知の問題を乗り越えるための手法として、情報工学的な手法が注目されている。情報工学は、人の能力の物理的な限界を超えた情報の処理を可能とする。人間には8万本の論文の概要を読むことさえ困難であるが、コンピュータを用いれば短時間で大量の知識を収集し、分析することが可能である。コンピュータを利用して、データベース等の電子化された情報源から知識を適切に取得し、そこに含まれる言葉や引用関係をもとに分析することで、目的に応じた編集又は構造化を行い、人が理解可能な形で結果を提示する、そうしたシステムが出来れば、埋没しがちな知の有効活用を大いに促進することが期待できる。知識の収集については、今日の検索技術を利用すれば、様々な検索語の組み合わせやその自動推薦(関連する言葉の自動的な提案)により、取り出す知識の範囲を自在に画することが可能である。知識の分析、編集については、収集した知識を自動で分類し、分類間の関連付けを行うことが可能となっている。先ほどの8万本の学術論文に関して、引用情報に基づいた分析を行い分類すると、加齢に伴う肉体的・精神的な変化、視力・聴力の障害、知的な障害と徘徊の問題、介護や介護する家族への支援の在り方、鬱とメンタルヘルス、運動と転倒防止、記憶の回復、病院における支援技術の八つの領域が、高齢化に関する課題の重要な部分集合として浮かび上がる。このように分解できれば、知識全体の理解に役立ち、求める知識も探しやすくなるであろう。さらに、異なる性格の知識間のつながりについても、コンピュータを用いて言葉の重複度合いを分析し、それに専門家の評価を加味することで、つながる可能性の高い候補を抽出するといったことも可能となりつつある。超高齢化社会に対するロボット技術の応用可能性を調べるために、我々がヒートマップと呼ぶ手法により、先ほどの高齢社会に関する知識とロボットに関する知識との関係を分析してみると、鬱と埋め込み型補聴器、肺がんや前立腺がんと手術支援ロボット、パーキンソン病、関節炎、脊髄損傷と足の筋肉強化を行うハビリ支援ロボット、孤独や鬱と人間型ロボットやロボットペットといった関係が抽出される。

従来、イノベーション研究の世界では、文書化されていない暗黙知のなかに貴重な知見が隠れていると考え、それを如何に早く知り、利用するかということが議論されてきた。しかしながら、明文化された知識が爆発的に増加している今日においては、それよりむしろ「埋没知」の有効利用の方が重要性が高い。埋没知の効率的・効果的な利用のためには、第一に、先に挙げたような情報工学的な手法を政策や経営戦略の立案過程に導入することが不可欠である。専門的知識を持った人材が二十一世紀型の手法により構造化された知識を武器にすれば、有用な知識やそのつながりを見落とすことや、重要でないものを重要と見誤るリスクは小さくなる。第二に、俯瞰(ふかん)的に事象をみる能力や知識を編集する能力が高い人材を育成することである。情報工学的手法と人間の柔軟性の高い思考能力が組み合わさることで初めて、知識に関する適切な評価や活用が可能となる。このためには、実践も含めた思考の訓練を重視する必要がある。知識の詰め込みや狭い範囲の知だけを深く掘り下げることとは異なった教育プログラムが必要であろう。 よりよき未来のために、新たな手法と人材を駆動力として、大量の知を活かした革新的なイノベーションが進むことを期待したい。